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無事是貴人



「太平記」奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛の事(その1)

奥州あうしうの国司北畠源中納言顕家卿あきいへのきやうさんぬる元弘げんこう三年正月に、園城寺をんじやうじ合戦の時上洛しやうらくせられて義貞よしさだに力を加へ、尊氏卿たかうぢのきやうを西海に漂はせし無双ぶさうの大功也とて、鎮守府の将軍に成れて、又奥州へぞ下されける。其翌年官軍くわんぐん戦破れて、君は山門より還幸くわんかうなりて、花山院の故宮に幽閉せられさせ給ひ、金崎かねがさきの城は攻落されて、義顕よしあき朝臣自害したりと聞へし後は、顕家卿に付随ふ郎従らうじゆう、皆落失ていきほひ微々に成しかば、わづか伊達郡だてのこほり霊山りやうぜんの城一を守て、有も無が如にてぞをはしける。


奥州の国司北畠源中納言顕家卿(北畠顕家)は、去る元弘三年(1333)の正月に、園城寺合戦の時上洛して義貞(新田義貞)に味方し、尊氏卿(足利尊氏)を西海に漂わせて無双の大功であると、鎮守府の将軍(鎮守府大将軍)となり、また奥州に下りました。その翌年官軍は戦いに破れると、君(第九十六代、南朝初代後醍醐天皇)が山門(比叡山)より戻られ、花山院の故宮に幽閉されましたが、金崎城(金ヶ崎城:現福井県敦賀市)が攻め落とされ、義顕朝臣(新田義顕。義貞の長男)が自害した聞こえた後は、顕家卿(北畠顕家)に付き従う郎従([家来])は、皆落ち失せて勢いもわずかとなり、わずかに伊達郡の霊山城(現福島県伊達市)一つを守るばかりとなりながらも、かろうじて守っていました。

続く


# by balatnas | 2024-03-19 06:13 | 太平記 | Trackback | Comments(0)

「太平記」相摸次郎時行勅免の事

先亡せんばう相摸入道にふだう宗鑒そうかんが次男相摸次郎時行ときゆきは、一家いつけたちまちに亡し後は、天にせぐくまり地にぬきあしして、一身を置に安き所なかりしかば、ここの禅院ぜんゐんかしこ律院りつゐんに、一夜二夜を明して隠ありきけるが、ひそかに使者を吉野殿へまゐらせ申入まうしいれけるは、「亡親ばうしん高時たかとき法師、臣たる道をわきまへずして、遂に滅亡を勅勘ちよくかんの下に得たりき。しかりといへ共、天誅てんちうに当る故を存ずるに依て、時行一塵いちぢんも君を恨申処を存候はず。元弘げんこう義貞よしさだ関東くわんとうを滅し、尊氏たかうぢは六波羅を攻落す。彼両人いづれも勅命に依て、征罰を事としさふらひし間、いきどほりを公儀に忘れ候し処に、尊氏たちまちに朝敵てうてきとなりしかば、威を綸命りんめいの下に仮て、世を反逆ほんぎやくうちに奪んとくはたてける心中、事已に露顕し候歟。そもそも尊氏たかうぢが其人たる事ひとへに当家優如いうじよの厚恩に依候よりさふらひき。しかるに恩をになうて恩を忘れ、天をいただいて天をそむけり。其大逆無道ぶだうはなはだしき事、世のにくむ所人の指さす所也。是を以当家の氏族等、ことごとく敵を他に取らず。これ尊氏・直義ただよしらが為に、其恨を散ん事を存ず。天鑑てんかんあきらか下情かじやうを照されば、まげて勅免をかうむつて、朝敵てうてき誅罰ちうばつの計略を廻すべき由、綸旨りんしを成下れば、よろし官軍くわんぐんの義戦を扶け、皇統の大化たいくわ仰申あふぎまうすべきにて候。それ不義の父を誅せられて、忠功の子を召仕はるる例あり。異国には趙盾てうとん我朝わがてうには義朝よしとも、其外泛々はんはんたるたぐひ、勝計すべからず。用捨無偏、弛張ちちやう時、明王みやうわうの撰士徳也。豈既往の罪を以て、当然の理を棄られ候はんや」と、伝奏てんそうしよくして委細にぞ奏聞したりける。主上しゆしやう能々よくよく聞召て、「犁牛りぎうのたとへ、其ことわりしか也。罰其罪にあたり、しやう其功に感ずるは善政のさいたり」とて、すなはち恩免の綸旨をぞ下れける。


先亡の相摸入道宗鑒(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)の次男相摸次郎時行(北条時行)は、一家たちまちに亡びた後は、天に跼り地に蹐し([天に跼り地に蹐す]=[天は高いのに背を かがめて歩き、地は堅いのに抜き足で歩くこと])して、一身を置くに心休まる所もなく、ここの禅院、あちらの律院で、一夜二夜を明かして隠れていましたが、密かに使者を吉野殿(南朝)へ参らせて申し入れるには、「亡親高時法師(北条高時)は、臣としての道を弁えずして、遂に(鎌倉幕府の)滅亡を勅勘の下に得ることとなりました。とはいえども、天誅をこの故に被ることを、この時行わずかも君(南朝初代後醍醐天皇)に恨み申すものではございません。元弘(三年(1333))に義貞(新田義貞)は関東(鎌倉)を滅ぼし、尊氏(足利尊氏)は六波羅を攻め落としました。この両人はいずれも勅命による、征罰でありますれば、憤りを公儀(鎌倉幕府)の滅亡とともに忘れるべきにもかかわらず、尊氏たちまちに朝敵となって、威を綸命([天子や天皇の命令])に拠りながらも、世の反逆者となって奪おうとしておることは、すでに明らかに思えまする。そもそも尊氏(足利尊氏)が世に人としてあるのもひとえに当家(北条家)の優如([罪・非法など有責のことがらを大目にみること])の厚恩によるものでございます。しかるに恩がありながら恩を忘れ、天を戴いて天に背いておるのです。その大逆無道は度を超えて、世は憎み人は指指すところでございます。これをもってしても当家の氏族たちの、敵は尊氏以外にはございません。わたしは尊氏・直義(足利直義)に対して、この恨みを晴らしたいと思っているのでございます。天鑑(天子の御心)明らかに下情([一般の民衆の実情])を照らさば、曲げて勅免を蒙り、朝敵(尊氏)誅罰の計略を廻らせよと、綸旨が下されれば、力の限り官軍の義戦を助け、皇統を仰ぎ申す所存でございます。不義の父(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)を誅せられて、忠功の子を召し仕われる例はすでにございます。異国([中国])には趙盾(趙盾とその子趙武てうぶ)、我が朝には義朝(源義朝とその子頼朝)、その外泛々たる([軽々しい様])類は、枚挙にも及びません。用捨かたよりなく、弛張([寛大にすることと厳格にすること])時に従ってこそ、明王(不動明王)のような選士([兵士])を得ることができましょう。どうして既往の罪をもって、当然の理を棄てられるのですか」と、伝奏([上皇・天皇に近侍して奏聞・伝宣を担当した者])に付けて細かに奏聞しました。主上(南朝初代後醍醐天皇)はじっくりとお聞きになられて、「犁牛([役牛])の申すこと、たしかにその通りじゃの。罰は罪に対するもの、賞をその功に感ずるのが最上の善政ではないか」と申されて、すぐに恩免の綸旨を下されました。

続く


# by balatnas | 2024-03-18 06:44 | 太平記 | Trackback | Comments(0)

「太平記」諸国宮方蜂起の事

主上しゆしやう山門より還幸くわんかうなり、官軍くわんぐん金崎かねがさきにて皆うたれぬと披露有ければ、今は再び皇威に復せん事、近き世にはあらじと、世挙て思定ける処に、先帝又三種さんじゆ神器じんぎを帯して、吉野へ潜幸せんかうなり、又義貞よしさだ朝臣已に数万騎すまんぎの軍勢を率して、越前国ゑちぜんのくにに打出たりと聞へければ、山門より降参したりし大館おほたち左馬助氏明うぢあきら、伊予国へ逃下り、土居どゐ得能とくのうが子共と引合て、四国を討従へんとす。江田兵部大夫ひやうぶのだいぶ行義ゆきよしも丹波国に馳来て、足立・本庄ほんじやう等を相語あひかたらつて、高山寺かうせんじにたて籠る。金谷かなや治部大輔ぢぶのたいふ経氏つねうぢ、播磨の東条とうでうより打出、吉河きつかは・高田が勢を付て、丹生にふの山陰に城郭じやうくわくを構へ、山陰の中道を差塞ぐ。遠江の井介ゐのすけは、妙法院宮めうほふゐんのみやを取立まいらせて、奥の山に楯籠る。宇都宮治部大輔入道は、紀清きせい両党五百余騎を率して、吉野へ馳参はせまゐりければ、旧功を捨ざる志を君殊に叡感有て、すなはち是を還俗げんぞくせさせられ四位少将しゐのせうしやうにぞなされける。此外四夷八蛮しいはちばん此彼ここかしこよりをこるとのみ聞へしかば、先帝旧労きうらうの功臣、義貞よしさだ恩顧の軍勢等、病雀びやうじやく花をくらう飛揚ひやうつばさを伸、轍魚てつぎよ雨を得て噞喁げんぐうくちびるを湿ほすと、悦び思はぬ人もなし。


主上(北朝第二代光明天皇)が山門(比叡山)より戻られ、官軍が金崎(金ヶ崎城:現福井県敦賀市)で皆討たれたと聞き、今は再び皇威に返ることは、近い世にはあるまいと、世の者は思っていましたが、先帝(第九十六代後醍醐天皇)が三種の神器を帯し、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)へ潜幸され、また義貞朝臣(新田義貞)もまたすでに数万騎の軍勢を率して、越前国に打ち出たと聞こえると、山門より降参した大館左馬助氏明(大舘氏明)は、伊予国へ逃げ下り、土居・得能の子どもと協力して、四国を討ち従えることにしました。江田兵部大夫行義(江田行義)も丹波国に馳せ来て、足立・本庄らを味方に付け、高山寺(現京都市右京区)に立て籠もりました。金谷治部大輔経氏(金谷経氏)は、播磨の東条(現兵庫県加東市)より打ち出ると、吉川・高田の勢を付け、丹生(丹生山:現神戸市北区)の山陰に城郭(丹生山城)を構え、山陰の中道を塞ぎました。遠江井介(井伊道政みちまさ)は、妙法院の宮(後醍醐天皇の皇子宗良むねよし親王の子、尹良ゆきよし親王?)を擁して、奥の山(井伊城:現静岡県浜松市)に立て籠もりました。宇都宮治部大輔入道(宇都宮公綱きんつな)は、紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])五百余騎を率して、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)へ馳せ参りました、旧功を捨てざる心ざしを君(後醍醐天皇)はたいそう感じられて、すぐにこの者を還俗させ四位少将になされました。この外四夷八蛮([中国の周辺地域に存在する異民族。東夷,北狄,南蛮,西戎])が、あちらこちらより蜂起すると聞こえたので、先帝旧労の功臣、義貞(新田義貞)恩顧の軍勢たちは、病雀が花を食べて飛揚の翼を伸ばし、轍魚([わだちの水たまりで苦しんでいる魚の意])が雨を得て、噞喁([魚が水面に口を出して呼吸すること])の唇を湿おすと、よろこばぬ者はいませんでした。

続く


# by balatnas | 2024-03-17 09:35 | 太平記 | Trackback | Comments(0)

「太平記」金崎東宮並将軍宮御隠の事(その2)

哀哉あはれなるかな尸鳩樹頭しきうじゆとうの花、連枝れんし早く一朝の雨に随ひ、悲哉かなしいかな鶺鴒原上せきれいげんじやうの草、同根たちまちに三秋の霜に枯ぬる事を。去々年は兵部卿ひやうぶきやう親王しんわう鎌倉にて失れさせ給ひ、又去年の春は中務親王なかづかさのしんわう金崎かねがさきにて御自害あり。此等をこそためしなく哀なる事に、聞人心を傷しめつるに、今又春宮・将軍宮、幾程なくて御隠れありければ、心あるも心なきも、是をきき及ぶ人毎に、哀をもよほさずと云事なし。かくつらく当たり給へる直義ただよし朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒害せられ給ふ事こそ不思議なれ。


あわれなるかな尸羅逸多(北インドを制覇した戒日王ハルシャ・ヴァルダナ)の頂きの花は、連枝([貴人の兄弟])は早くも一朝の雨に散り、悲しいかな鶺鴒([セキレイ])原の草は、同根たちまちに三秋([初秋・仲秋・晩秋])の霜に枯れてしまった。去々年は兵部卿の親王(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の三宮)は鎌倉にて失われ、また去年の春は中務の親王(尊良たかよし親王。後醍醐天皇の一宮)が金ヶ崎(現福井県敦賀市)で自害されました(金ヶ崎の戦い)。これらさえ前例もなく哀れなことで、聞く人は心を傷めていましたが、今また春宮(恒良つねよし親王。後醍醐天皇の五宮)・将軍の宮(成良親王。後醍醐天皇の六宮)が、いくほどなくてお隠れになられたので、心ある者心ない者でさえも、これを聞き及ぶ人は皆、悲しみまないものはいませんでした。ここまで厳しく当たる直義朝臣(足利直義)の行く末は、どうなることだろうかと思わない者はいませんでしたが、終に毒害されることになるとは不思議なことでした。

続く


# by balatnas | 2024-03-16 10:59 | 太平記 | Trackback | Comments(0)

「太平記」金崎東宮並将軍宮御隠の事(その1)

新田義貞よしさだ義助よしすけ杣山そまやまより打出て、尾張守をはりのかみ・伊予守府中を落、其外所々の城落されぬと聞へければ、尊氏卿たかうぢのきやう直義ただよし朝臣おほきに忿て、「此事はひとへに春宮の彼等を御たすけあらん為に、金崎かねがさきにて此等は腹を切たりとのたまひしを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差下しつるによつて也。此宮此程当家を失はんと思召けるを知らで、もし只置奉らば、何様いかさま不思議の御くはたても有ぬと覚れば、ひそか鴆毒ちんどくまゐらせて失奉れ」と、粟飯原あひはら下総守しもふさのかみ氏光うぢみつにぞ下知げぢせられける。春宮は、連枝れんしの御兄弟きやうだい将軍しやうぐんの宮とて、直義朝臣先年鎌倉へまうし下参せたりし先帝第七の宮と、一所に押籠られて御座ありける処へ、氏光薬を一裹ひとつつみ持て参り、「いつとなく加様かやうに打籠て御座候へば、御病気なんどのきざす御事もや候はんずらんとて、三条さんでう殿より調進てうしんせられて候、毎朝一七日ひとなぬか聞食候へ」とて、御前おんまへにぞさしおきける。氏光うぢみつ罷帰まかりかへつて後、将軍宮しやうぐんのみや此薬を御覧ぜられて宣けるは、「いまだ見へざるさきに、兼て療治れうぢくはふる程に我等を思はば、此一室の中に押籠て朝暮てうぼ物を思はすべしや。是は定て病をする薬にはあらじ、只命をしじむる毒なるべし」とて、庭へ打捨んとせさせ給けるを、春宮御手に取せ給て、「そもそも尊氏・直義等、其程に情なき所存をさしはさむ者ならば、たとひ此薬を飲まず共のがるべき命かは。是元来ぐわんらい所願成就じやうじゆ也。此毒を呑世をはやうせばやとこそ存候へ。『れ人間の習、一日一夜をる間に八億四千の念あり。一念悪を発せば一生いつしやうの悪身を得、十念悪を発せば十生悪身を受く。乃至ないし千億の念も又爾也しかなり』といへり。かくのごとく一日の悪念のはう、受盡さん事なほ難し。いはんや一生いつしやうの間の悪業あくごふをや。悲哉かなしいかな、未来無窮むぐうの生死出離しゆつりいづれの時ぞ。富貴栄花ふつきえいぐわの人に於て、猶此苦を遁ず。況我等籠鳥ろうてうの雲を恋、涸魚かくぎよの水を求る如に成て、聞に付見るに随ふ悲のうちに、待事もなき月日を送て、日のつもるをも知らず。悪念にをかされんよりも、命を鴆毒の為にしじめて、後生善処ごしやうぜんしよの望を達んにはしかじ」と仰られて、毎日法華経ほけきやう一部あそばされ、念仏唱させ給て、此鴆毒をぞ聞召ける。将軍の宮是を御覧じて、「たれとても懸る憂き世に心を留べきにあらず、おなじく後生ごしやうまでも御供申さんこそ本意なれ」とて、諸共に此毒薬を七日までぞ聞食ける。やがて春宮は、其翌日より御心地例に違はせ給けるが、御終焉じゆうえんの儀しづかにして、四月十三日じふさんにちの暮程に、忽に隠させ給けり。将軍宮しやうぐんのみやは二十日余まで後座ありけるが、黄疸わうだんと云御いたはり出来て、御遍身へんしん黄に成せ給て、是もつひに墓なくならせ給にけり。


新田義貞・義助(脇屋義助。新田義貞の弟)は杣山(現福井県南条郡南越前町)より打ち出て、尾張守(斯波高経しばたかつね)・伊予守(斯波家兼いへかね。高経の弟)が越前国府中を落ち、そのほか所々の城を落としたと聞こえたので、尊氏卿(足利尊氏)・直義朝臣(足利直義。尊氏の弟)はたいそう怒って、「このことひとえに春宮(恒良つねよし親王。第九十六代後醍醐天皇の五宮)を助けられるために、金ヶ崎(金ヶ崎城:現福井県敦賀市)でこれらが腹を切ったと申されたことを、本当と思って、杣山へ討手を差し下すのが遅れたからぞ。この宮がこれほどまでに当家を亡ぼしたいと思っておられるのも知らずに、置いたままでは、必ずや不思議の企てもあるかと思えば、密かに鴆毒([ちんと呼ばれる空想上の鳥の羽の毒])を参らせて失うのがよろしいでしょう」と、粟飯原下総守氏光(粟飯原氏光)に命じました。春宮(恒良親王)は、連枝([貴人の兄弟])の兄弟である将軍宮(恒良つねよし親王)と申して、直義朝臣(足利直義)が先年鎌倉へ申し下し参らせた先帝(後醍醐院)第七の宮(成良なりよし親王。後醍醐天皇の六宮)と、一所に押し籠められておられました所へ、氏光(粟飯原氏光)が薬を一包持って参り、「いつとなくこうして打ち籠もっておられますれば、ご病気などになられることもあられるかと、三条殿(足利直義)より調進([注文に応じ、品物をととのえて差し上げること])がございました、毎朝一七日(七日間)お召し上がりくださいませ」と申して、御前に差し置きました。氏光(粟飯原氏光)が帰った後、将軍宮(成良親王)はこの薬をご覧になられて申されるには、「いまだ病いにもなっておらぬ前に、あらかじめ療治([治療])のことを心配するほど我らのことを思っているならば、この一室の中に押し籠めて朝暮に物思いなどさせるはずもありません。これは決して病いを治す薬ではなく、命を縮める毒でしょう」と申して、庭へ捨てようとしましたが、春宮(恒良親王)は薬を手に取って、「そもそも尊氏(足利尊氏)・直義(足利直義)らが、それほどまでに情けのないことをする者ならば、たとえこの薬を飲まずとも遁れることのできない命よ。元より願っておった(往生=極楽浄土に生まれ変わること)も成就できるというものだ。この毒を飲み世からすみやかに失せようと思うておる。『人間というものは、一日一夜を経る間にも八億四千の念があると言う。一念の悪心を起こせば一生の悪身を得、十念悪を起こせば十生悪身を受ける。千億の念もまた同じ」と言うぞ。このように一日の悪念の応報は、尽きぬことはない。申すまでもなく一生の間の悪業などとても消すことはできぬ。悲しいことよ、未来無窮([無限])の生死出離([迷いを離れて解脱の境地に達すること])はいったいいつのことぞ。富貴栄花([身分が高く、富み栄えること])を得たところで、死の苦からは遁れられるものではない。申すまでもなくわたしたちは篭鳥([かごに飼われている鳥])が雲を恋しく思い、涸魚([涸れた轍の魚])が水を求めているようなものではないか、聞くに付け見るに随い悲しみの中で、いつまで待つとも知れず月日を送り、日が積もることさえ知らないでおる。悪念に犯されるよりも、命を鴆毒のために縮め、後生善処([死後に善い世界に生まれることができること])の望みを叶えようではないか」と申されて、毎日法華経一部を写経し、念仏唱えられ、鴆毒を召し上がられました。将軍宮(成良親王)はこれをご覧になられ、「誰がこれほどの憂き世に心を留めることでしょうか、同じことならば後生までもお供申し上げることこそ本意です」と申して、ともにこの毒薬を七日間召し上がられました。やがて春宮(恒良親王)は、その翌日より具合が悪くなられました、終焉([死を迎えること])の儀を静かになされて、四月十三日の暮れほどに、たちまちお隠れになられました。将軍の宮(成良親王)は二十日余りまで長らえておられましたが、黄疸という病気になられ、遍身([全身])が黄色く変わられて、同じくお隠れになられました(この後まで生きていたとも)。

続く


# by balatnas | 2024-03-15 06:11 | 太平記 | Trackback | Comments(0)


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