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無事是貴人



「太平記」諸国宮方蜂起の事付越中軍の事(その4)

越中には、桃井もものゐ播磨のかみ直常ただつね信濃の国より打ち越えて、旧好きうかうつはものどもを相語あひかたらふに、当国の守護尾張をはりの大夫入道にふだうの代官鹿草かくさ出羽ではの守が、国の成敗みだりなるに依つて、国人挙つてこれを背きけるにや、野尻・井口ゐのくち・長倉・三沢の者ども、直常に馳せ付きけるほどに、その勢千余騎に成りにけり。桃井やがていきほひに乗つて国中こくぢゆうを押すに手にさわる者なければ、加賀の国へ発向はつかうして富樫とがしを責めんとて打ち出でける。能登・加賀・越前の兵どもこれを聞いて、敵に先をせられじと相集つて、三千余騎越中ゑつちゆうの国へ打ち越えて三箇所に陣を取る。桃井はいつも敵の陣未だ取りをほせぬ所に、懸け散らすを以つて利とする者なりければ、逆寄さかよせに押し寄せて責め戦ふに、越前の勢一陣先づ破れて、能登・越中の両陣も全からず、十方に散つてぞ落ち行きける。日暮るれば桃井本の陣へ打ち帰つて、物の具脱いで休みけるが、夜半計りにちと評定すべき事ありとて、この陣より二里許り隔てたる井口が城へ、誰にもかくとも知らせずしてただ一人ぞ行きたりける。この時しも能登・加賀の者ども三百余騎打ち連れて、降人かうにんに出でたりける。執事にしよくして、大将の見参に入らんとまうす間、同道して大将の陣へ参じ、事の由を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習きんじふの人に尋ぬれども、「いづくへか御入りさふらひぬらん。未だよひより大将は見へさせ給はぬなり」とぞ答へける。陣を並べたる外様の兵どもこれを聞いて、「さては桃井殿落ちられにけり」と騒ぎて、「我もいづくへか落ち行かまし」と物の具を着るもあり捨つるもあり、馬に乗るもあり、乗らぬもあり、ひたひしめきにひしめく間、焚き捨てたる火陣屋に燃え著いて、燎原れうげんほのほ盛んなり。これを見て、降人に出でたりつる三百余騎の者ども、「さらばいざ落ち行く敵どもを打ち取つて、我が高名にせん」とて、えびらたたき鬨を作つて、追つ懸け追つ懸け打ちけるに、かへし合はせて戦はんとする人なければ、ここに追ひ立てられ彼に切り伏せられ、討たるる者二百余人生け虜り百人に余れり。桃井もものゐは未だ井口ゐのくちじやうへも行き著かず、道にて陣に火の懸かりたるを見て、これはいかさまかへり忠の者あつて、敵夜討ちに寄せたりけりと心得て、立ち帰る処に、逃ぐるつはものども行き合つて息をもき敢えず、「ただ引かせ給へ、今は叶ふまじきにて候ふぞ」とまうし合ひける間力及ばず、桃井も共に井口の城へ逃げ篭もる。昼の合戦に打ち負けて、御服の峯に逃げ上りたる加賀・越前の勢ども、桃井が陣の焼くるを見て、何とある事やらんと怪しく思ふ処に、降人かうにんに出て、心ならず高名しつる兵ども三百余騎、生け捕りを先に追ひ立てさせ、きつさきくびを貫いて馳せ来たり、「鬼神の如く申しつる桃井が勢をこそ、我らわづかの三百余騎にて夜討ちに寄せて、若干そくばくの御敵どもを打ち取つて候へ」とて、仮名実名けみやうじつみやう事新しく、事々しげに名乗り申せば、大将鹿草かくさ出羽ではかみを始めとして国々の軍勢に至るまで、「あは大剛たいかうの者どもかな。この人々なくは、いかでか我らが会稽くわいけいの恥をばすすがまし」と、感ぜぬ人もなかりけり。後に生け捕りの敵どもがくはしく語るを聞いてこそ、さては降人に出たる不覚の人どもが、たふるる処に土を掴む風情をしたりけるよとて、かへつてにくみ笑はれける。


越中では、桃井播磨守直常(桃井直常)が信濃国より打ち越えて、旧好の兵どもを味方に付けようとしました、当国の守護尾張大夫入道(斯波高経たかつね)の代官鹿草出羽守(完草義続よしつぐ?)が、国の成敗を好き勝手になしたので、国人は残らずこれに背いたか、野尻・井口・長倉・三沢の者どもが、直常に馳せ付いたので、桃井直常の勢は千余騎になりました。桃井(直常)はたちまち勢いに乗って国中を攻めましたが刃向かう者はいませんでしたので、加賀国へ発向して富樫(富樫 昌家まさいへ)を攻めようと打ち立ちました。能登・加賀・越前の兵どもはこれを聞いて、敵に先を越されまいと集まって、三千余騎が越中国に打ち越えて三箇所に陣を取りました。桃井はいつも敵が陣を取らぬうちに、駆け散らして勝つ者でしたので、逆寄せに押し寄せて攻め戦うと、越前の勢は一陣にまず破れて、能登・越中の両陣も防ぎかねて、十方に散って落ち行きました。日が暮れると桃井は本陣に帰り、物の具([武具])を脱いで休んでいましたが、夜半ほどに少々評定すべきことがあると、この陣より二里ばかり離れた井口城(現富山県南砺市)に、誰にも知られずただ一人出かけました。この間に能登・加賀の者どもが三百余騎打ち連れて、降人に出ました。執事に付いて、大将の見参に入りたいと申したので、同道して大将の陣へ参じ、事の由を申そうとしましたが、大将の陣には一人もいませんでした。近習の人に訊ねましたが、「どこに行かれましたか。宵より大将を見ておりません」と答えました。陣を並べていた外様の兵どもはこれを聞いて、「さては桃井殿は落ちられたか」と騒いで、「我もどこにか落ち行かなくては」と物の具を着る者もあり捨てる者もあり、馬に乗るもあり、乗らぬもあり、ひしめき合ったので、焚き捨てた火が陣屋に燃え付いて、燎原([火の燃えひろがった野原])の炎となって燃え広がりました。これを見て、降人に出た三百余騎の者どもは、「ならば落ち行く敵どもを打ち取って、我が高名にしよう」と、箙([矢を入れる容器])を叩き鬨を作って、追いかけ追いかけ打つと、返し合わせて戦おうとする者はいませんでしたので、ここに追い立てられかしこに斬り伏せられて、討たれる者は二百余人生け捕りは百人に余りました。桃井(桃井直常ただつね)はまだ井口城(現富山県南砺市)に着いていませんでしたが、道中で陣に火が懸かるのを見て、これはきっと返り忠の者がいて、敵が夜討ちに寄せたのだと心得て、立ち帰るところに、逃げる兵どもと行き合って息も吐き敢えず、「ただ引かれますよう、今となってはどうしようもありません」と申したので仕方なく、桃井とともに井口城に逃げ籠もりました。昼の合戦に打ち負けて、御服峯(白鳥城=呉服山城。現富山県富山市)に逃げ上っていた加賀・越前の勢どもは、桃井の陣が焼けるのを見て、何があったのかと怪しく思っているところに、降人に出て、思いの外に高名を上げた兵どもが三百余騎、生け捕りを先に追い立てて、切っ先に首を貫いて馳せ来て、「鬼神と言われておる桃井が勢を、我らわずか三百余騎で夜討ちに寄せて、若干の敵どもを討ち取ったぞ」と、仮名実名([真実])をとりわけ、仰々しく名乗ったので、大将鹿草出羽守をはじめとして国々の軍勢に至るまで、「なんとも大剛の者どもよ。この者どもがいなければ、どうして我らが会稽の恥を雪ぐことができたことか」と、感激しない者はいませんでした。後に生け捕りの敵どもが詳しく語るのを聞いて、さては降人に出たる不覚の人どもが、倒れても土を掴む([転んでもただは起きない]=[たとえ失敗した場合でもそこ から何かを得ようとする])だけのことかと、かえって嘲り笑われることとなりました。

続く


by balatnas | 2023-01-27 08:07 | 太平記 | Trackback | Comments(0)
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