人魚の説『若狭国風土記』にあり。若狭の小浜といへる所の有徳なる者集まりて、種々様々の珍物を調へ料理致せけるに、人魚を料理けるが人々その姿を見て誰食する者なし。時に七才ばかりなる娘の子弁へもなくこれを食す。しかるに数多の年月を過ぐるといへどもその姿変はらず。一家一門の知音皆々死に果てしかともこの娘ばかりは生きて、後には余りの事なるが故尼となり八百歳と成りけれども、顔形年も寄らず十六七才の姿なり。若かりし時よりありし事どもよく覚え居て不思議なる者とて、この事都へ聞こえ禁庭へ召され五六百年前の事尋ねあるに、御記録に違ふ事なしかほど長寿せし故若狭国と名付け給へりとなり。これは時の帝の御長寿を守らんが為より海より上りたり。しかども怪しき魚故却つて下賎の娘に食せられ、八百比丘尼とぞ申しける。後には神となり若狭の一宮遠敷大明神と名付く。
この観世音の霊験数多なるが故ここに略す。
人魚の話は『若狭国風土記』に書かれています(ただし『若狭国風土記』は逸文)。若狭の小浜(現福井県小浜市)という所の有徳([富裕])な者どもが集まって、種々様々の珍物を揃えて料理しました、その中に人魚を料理した物がありましたが人々はその姿を見て誰一人食べませんでした。その時七才ばかりの娘子が何気なしにこれを食べました(隠してあった人魚の肉を盗み食いしたらしい)。その後多くの年月が過ぎましたが姿は変わりませんでした。一家一門の知音([知り合い])は皆死にましたがこの娘ばかりは生きて、後にはあまりに長生きしたので尼となり八百歳になりましたが、顔かたちは変わることなく十六七才の姿のままでした。若い頃より物覚えがよく不思議な者と、これが都に聞こえ禁廷([宮中])に召されて五六百年前の事を訊ねられましたが、記録に相違せぬほどの長寿でしたので若狭国と名付けられたということです。この人魚は時の帝の長寿を守るために海より上がりました。けれども不気味な魚でしたので下賎の娘が食べて、娘は八百比丘尼と呼ばれました。後には神となり若狭の一宮(若狭彦神社下社の若狭姫神社。現福井県小浜市)遠敷大明神と名付けられました。
この観音正寺の観世音菩薩の霊験は数多くありますが略します。
追記
八百比丘尼の伝説は北海道と九州南部以南を除くほぼ全国に分布しているとのこと。
また東大寺二月堂で行われる「お水取り」は有名ですが、この「お水取り」は神事であり、「お水取り」の主役が若狭一宮から勧請した遠敷明神なのです。
(続く)