ここに備中の国の住人陶山藤三義高・小見山次郎某、六波羅の催促に随つて、笠置の城の寄せ手に加はつて、河向かひに陣を取つて居たりけるが、東国の大勢既に近江に着きぬと聞こへければ、一族若党どもを集めて申しけるは、「御辺たち如何が思ふぞや、この間数日の合戦に、石に打たれ、遠矢に当たつて死ぬる者、幾千万と云ふ数を知らず。これ皆差して為出だしたる事もなうて死しぬれば、骸骨未だ乾かざるに、名は先立ちて消え去りぬ。同じく死ぬる命を、人目に余るほどの軍一度して死したらば、名誉は千載に留まつて、恩賞は子孫の家に栄えん。倩平家の乱よりこの方、大剛の者とて名を古今に揚げたる者どもを案ずるに、いづれもそれほどの高名とは思えず。先づ熊谷・平山が一の谷の先懸けは、後陣の大勢を憑みし故なり。梶原平三が二度の懸けは、源太を助けん為なり。佐々木の三郎が藤戸を渡ししは、案内者の業、同じく四郎高綱が宇治川の先陣は、生食故なり。これらをだに今の世まで語り伝へて、名を天下の人口に残すぞかし。いかに況や日本国の武士どもが集まつて、数日攻むれども落とし得ぬこの城を、我らが勢許りにて攻め落としたらんは、名は古今の間に双びなく、忠は万人の上に立つべし。いざや殿ばら、今夜の雨風の紛れに、城中へ忍び入つて、一夜討ちして天下の人に目を覚まさせん」と云ひければ、五十余人の一族若党、「もつとも然るべし」とぞ同じける。これ皆千に一つも生きて帰る者あらじと思ひ切つたる事なれば、兼ねての死に出で立ちに、皆曼陀羅を書いてぞ付けたりける。差し縄の十丈許り長きを二筋、一尺計り置いては結び合はせ結び合はせして、その端に熊手を結ひ付けて持たせたり。これは岩石などの登られざらん所をば、木の枝岩の廉に打ち懸けて、登らん為の支度なり。その夜は九月晦日の事なれば、目指すとも知らざる暗き夜に、雨風烈しく吹いて面を向くべき様もなかりけるに、五十余人の者ども、太刀を背中に負ひ、刀を後ろに差いて、城の北に当たりたる石壁の数百丈聳えて、鳥も翔けり難き所よりぞ登りける。 二町許りはとかうして登りつ、その上に一段高き所あり。屏風を立てたる如くなる岩石重なりて、古松枝を垂れ、蒼苔路滑らかなり。ここに至りて人皆如何んともすべき様なくして、遥かに見上げて立つたりけるところに、陶山藤三、岩の上をさらさらと走り上つて、件の差し縄を上なる木の枝に打ち懸けて、岩の上より下ろしたるに、跡なる兵ども各々これに取り付いて、第一の難所をば安々と皆上りてげり。それより上にはさまでの嶮岨なかりければ、あるひは葛の根に取り付き、あるひは苔の上を爪立てて、二時計りに辛苦して、屏の際まで着いてけり。ここにて一息休めて、各々屏を上り越え、夜廻りの通りける迹に付いて、先づ城の中の案内をぞ見たりける。追ふ手の木戸・西の坂口をば、伊賀・伊勢の兵千余騎にて堅めたり。搦め手に対する東の出屏の口をば、大和・河内の勢五百余騎にて堅めたり。南の坂、仁王堂の前をば、和泉・紀伊の国の勢七百余騎にて堅めたり。北の口一方は嶮しきを憑まれけるにや、警固の兵をば一人も置かれず、ただ云ひ甲斐なげなる下部ども二三人、櫓の下に薦を張り、篝を焚いて眠り居たり。陶山・小見山城を廻り、四方の陣をば早や見澄ましつ。皇居はいづくやらんと伺うて、本堂の方へ行くところに、ある役所の者これを聞き付けて、「夜中に大勢の足音して、潛かに通るは怪しきものかな、誰人ぞ」と問ひければ、陶山の吉次取りも敢へず、「これは大和勢にて候ふが、今夜余りに雨風烈しくして、物騒がしく候ふ間、夜討ちや忍び入り候はんずらんと存じ候ひて、夜廻り仕り候ふなり」と答へければ、「げに」と云ふ音して、また問ふ事もなかりけり。これより後は中々忍びたる体もなくして、「面々の御陣に、御用心候へ」と高らかに呼ばはつて、閑々と本堂へ上りて見れば、ここぞ皇居と思えて、蝋燭数多所に燃されて、振鈴の声幽かなり。衣冠正しくしたる人、三四人大床に伺候して、警固の武士に、「誰か候ふ」と尋ねられければ、「その国の某々」と名乗つて廻廊にしかと並居たり。陶山皇居の様まで見澄まして、今はかうと思ひければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峯へ上つて、人もなき坊のありけるに火を懸けて同音に鬨の声を挙ぐ。四方の寄せ手これを聞き、「すはや城中に返り忠の者出で来て、火を懸けたるは。閧の声を合はせよや」とて追ふ手搦め手七万余騎、声々に閧を合はせて喚き叫ぶ。その声天地を響かして、如何なる須弥の八万由旬なりとも崩れぬべくぞ聞こへける。陶山が五十余人の兵ども、城の案内は只今委しく見置きたり。ここの役所に火を懸けてはかしこに鬨の声を上げ、かしこに鬨を作つてはここの櫓に火を懸け、四角八方に走り廻つて、その勢城中に満ち満ちたる様に聞こへければ、陣々堅めたる官軍ども、城の内に敵の大勢攻め入りたりと心得て、物の具を脱ぎ捨て弓矢をかなぐり棄てて、がけ堀とも謂はず、倒れ転びてぞ落ち行きける。錦織の判官代これを見て、「膩き人々の振る舞ひかな。十善の君に憑まれ進らせて、武家を敵に受くるほどの者どもが、敵大勢なればとて、戦はで逃ぐる様やある、いつの為に惜しむべき命ぞ」とて、向かふ敵に走り懸かり走り懸かり、大肌脱ぎに成つて戦ひけるが、矢種を射尽くし、太刀を打ち折りければ、父子二人並びに郎等十三人、各々腹掻き切つて同じ枕に伏して死ににけり。
ここに備中国の住人陶山藤三義高(陶山義高)・小見山次郎某は、六波羅の催促に従って、笠置城(現京都府相楽郡笠置町)の寄せ手に加わり、(木津川の)川向かいに陣を取っていましたが、東国の大勢がすでに近江(現滋賀県米原市)に着いたと聞こえたので、一族若党どもを集めて申すには、「お前たちはどう思う、この数日の合戦で、石に打たれ、遠矢に当たって死ぬ者は、幾千万という数を知らぬ。これ皆大した軍もせずに死んだ者よ、骸骨がまだ乾く前に、名はすでに消え去った。同じく死ぬ命ならば、人目に余るほどの軍を一度して死ねば、名誉は千載([千年])留まり、恩賞は子孫の家に栄えよう。平家の乱よりこの方、大剛の者として名を古今に上げた者どもを思い返せば、いずれもそれほどの高名とも思えぬ。まず熊谷(熊谷直実)・平山(平山季重)の一の谷(現兵庫県神戸市須磨区)の先駆けは、後陣の大勢を頼んでのことである。梶原平三(梶原景時)が二度駆けは、源太(梶原景季。梶原景時の嫡男)を助けるためであった。佐々木三郎(佐々木盛綱)が藤戸(現岡山県倉敷市)を渡ったのは、案内者がおったからぞ、同じく四郎高綱(佐々木高綱。佐々木盛綱の弟)の宇治川の先陣は、生食(名馬の名)に乗っておったからよ。これらの者でさえ今の世まで語り伝えて、名を天下の人口([人の噂])に残っておる。申すまでもないことだが日本国の武士どもが集まって、数日攻めても落とせぬこの城を、我らの勢だけで攻め落とせば、名は古今並びなく、忠は万人の上に立つことであろう。どうだ殿たちよ、今夜の雨風の紛れに、城中へ忍び入り、一夜討ちして天下の人を驚かしてやろうではないか」と言えば、五十余人の一族若党も、「そうしよう」と同意しました。これは皆千に一つも生きて帰る者はあるまいと思い切ったことでしたので、死に出で立ちに、皆曼陀羅を書いて付けました。差し縄([馬の轡にかけて、引いたりつないだりする縄])の十丈ばかり長いものを二筋、一尺ばかり毎に結び合わせ結び合わせして、その端に熊手を結び付けて持たせました。これは岩石など登れない所を、木の枝岩の角に懸けて、登るための支度でした。その夜は九月晦日のことでしたので、目指す先も見えぬ暗い夜に、雨風が激しく吹いて顔を上げることもできないほどでしたが、五十余人の者どもは、太刀を背中に負い、刀を後ろに差して、城の北に当たる石壁が数百丈も聳えて、鳥も翔け難き所より登りました。二町ばかりを何とか登ると、その上に一段高い所がありました。屏風を立てたように岩石が重なり、古松は枝を垂れ、青苔が生い表面はつるつるでした。ここに至って人は皆どうしようもなくなり、遥かに見上げて立っていましたが、陶山藤三(陶山義高)は、岩の上をさらさらと走り上ると、あの差し縄([馬の轡にかけて、引いたりつないだりする縄])を上の木の枝に懸けて、岩の上から下ろしました、後に続く兵は各々これに取り付いて、一番の難所を易々と皆上りました。それより上はそこまでの嶮岨はありませんでしたので、葛の根に取り付き、苔の上を爪立てて、二時ばかり苦労しながら、塀の際まで着きました。ここで一息吐いて、各々屏を上り越え、夜廻りが通るその後に付いて、まず城の中の案内を見て回りました。追手([大手]=[敵の正面を攻撃する軍勢])の木戸・西の坂口は、伊賀・伊勢の兵が千余騎で固めていました。搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])に当たる東の出塀の口は、大和・河内の勢五百余騎で固めていました。南の坂、仁王堂の前は、和泉・紀伊の国の勢七百余騎が護っていました。北の口一方は険しさを頼りにしたのか、警固の兵は一人も置かず、頼りにもならないような下部ども二三人が、櫓の下に薦([むしろ])を張り、篝火を焚いて眠っていました。陶山(陶山義高)・小見山(小見山次郎)は城を廻り、四方の陣をすべて確認しました。皇居は何処であろと窺いながら、本堂の方へ行くところに、ある役所([戦陣で、将士が本拠としている所])の者はこれを聞き付けて、「夜中に大勢の足音がして、忍んで通るとは何とも怪しい、誰人だ」と訊ねると、陶山吉次はすかさず、「これは大和勢でございますが、今夜はあまりに雨風が激しくて、物騒がしくございますれば、夜討ちや忍び入りがないとも知れませんので、候はんずらんと存じ候ひて、夜廻りしてります」と答えると、「そうか」と言う声がして、再び訊ねることはありませんでした。この後は忍んだ様子もなくて、「面々の陣でも、用心なさいませ」と声高らかに叫んで、静かに本堂に上って見れば、ここが皇居と思われて、蝋燭があちらこちらで燃やされて、振鈴の声がかすかに聞こえました。衣冠を正しくした人が、三四人大床([寝殿造りで母屋の外側、簀子の内側にある細長い部屋])に伺候して、警固の武士に、「誰かおるか」と訊ねたので、「その国の某々」と名乗って廻廊に並びました。陶山(陶山義高)は皇居の様子まで見届けて、これですべて見届けたと思い、鎮守の前で一礼し、本堂の上の峯に上り、人のいない僧坊があったので火を懸けて声を合わせて鬨の声を上げました。四方の寄せ手はこれを聞いて、「なんと城中に返り忠([主君に背いて敵方に通じること])の者が出て来て、火を懸けたぞ。閧の声を合わせよ」と追手([大手]=[敵の正面を攻撃する軍勢])搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])七万余騎は、声々に閧を合わせて大声で叫びました。その声は天地を響かして、たとえ須弥([古代インドの世界観の中で中心にそびえる山])八万由旬(須弥山の高さ。一由旬=7.2km)であろうとも崩れると思われました。陶山(義高)の五十余人の兵どもは、城の作りを詳しく確認していました。ここの役所([戦陣で、将士が本拠としている所])に火を懸けてはかしこに鬨の声を上げ、かしこに鬨を作ってはここの櫓に火を懸け、四方八方に走り廻って、その勢は城中に満ち満ちているように聞こえたので、陣々を固めていた官軍どもは、城の内に敵が大勢攻め入ったと思い、物の具([武具])を脱ぎ捨て弓矢をかなぐり捨てて、崖堀も構わず、倒れ転びながら落ちて行きました。錦織判官代はこれを見て、「なんとも情けない者どもの振る舞いよ。十善の君(第九十六代後醍醐天皇)に頼まれ参らせて、武家を敵にするほどの者どもが、敵が大勢だからといって、戦わずに逃げるとはどういうことか、何のために命を惜しむのだ」と申して、向かう敵に走り懸かり走り懸かり、大肌脱ぎ([上半身の衣服を全部脱いで裸になること])になって戦いましたが、矢種を射尽くし、太刀を打ち折って、父子二人ならびに郎等([家来])十三人が、各々腹を掻き切って同じ枕に臥して死にました。
(続く)