尹の大納言師賢の卿は、主上の内裏を御出ありし夜、三条河原まで被供奉たりしを、大塔の宮より様々仰せられつる子細あれば、臨幸の由にて山門へ登り、衆徒の心をも窺ひ、また勢をも付けて合戦を致せと仰せられければ、師賢法勝寺の前より、袞竜の御衣を着して、腰輿に乗り替へて山門の西塔院へ登り給ふ。四条の中納言隆資二条の中将為明・中院の左中将貞平、皆衣冠正しうして、供奉の体に相従ふ。事の儀式まことしくぞ見へたりける。西塔の釈迦堂を皇居と被成、主上山門を御頼みあつて臨幸成りたる由披露ありければ、山上・坂本は申すに及ばず、大津・松本・戸津比叡辻・仰木・衣川・和邇・堅田の者までも、我先にと馳せ参る。その勢東西両塔に充満して、雲霞の如くにぞ見へたりける。
尹大納言師賢卿(尹師賢)は、主上(第九十六代後醍醐天皇)が内裏を御出した夜、三条河原まで主上の供に付いていましたが、大塔宮(護良親王)から様々仰せがあり、臨幸の振りをして山門(比叡山)に登り、衆徒([僧])の心を量り、 また勢を付けて合戦をせよと申されたので、師賢は法勝寺(現京都市左京区にあった)の前より、袞竜の御衣([天皇が着用した中国風の礼服])を着て、腰輿([前後二人で轅を手で腰の辺りに持ち添えて運ぶ乗り物])に乗り替えて山門の西塔院へ登りました。四条中納言隆資(四条隆資)・二条中将為明(二条為明)・中院左中将貞平(中院貞平)、皆衣冠([貴族や官人の宮中での勤務服])正しくして、供奉の体で相従いました。臨幸の儀式そのものに見えました。西塔の釈迦堂を皇居に定め、主上(後醍醐天皇)が山門を頼りにして臨幸されたことを披露すると、山上・坂本(現滋賀県大津市)は申すまでもなく、大津(現滋賀県大津市)・松本(現滋賀県大津市松本)・戸津(現滋賀県大津市)・比叡辻(現滋賀県大津市比叡辻)・仰木(現滋賀県大津市仰木町)・衣川(現滋賀県大津市衣川)・和邇(現滋賀県大津市)・堅田(現滋賀県大津市)の者までもが、我先にと馳せ参りました。その勢東西は両塔(東塔、西塔)に充満して、雲霞の如く見えました。
(続く)