去程に奥勢の先陣、既垂井・赤坂辺に著たりけるが、跡より上る後攻の勢近付きぬと聞へければ、先其敵を退治せよとて、又三里引返して、美濃・尾張両国の間に陣を取らずと云処なし。後攻の勢は八万余騎を五手に分、前後を鬮に取たりければ、先一番に小笠原信濃守・芳賀清兵衛入道禅可二千余騎にて志貴の渡へ馳向ば、奥勢の伊達・信夫の兵共、三千余騎にて河を渡てかかりけるに、芳賀・小笠原散々に駆立られて、残少に討れにけり。二番に高大和守三千余騎にて、州俣河を渡る所に、渡しも立ず、相摸次郎時行五千余騎にて乱合、互に笠符をしるべにて組で落、落重て頸を取り、半時ばかり戦たるに、大和守が憑切たる兵三百余人討れにければ、東西に散靡て山を便に引退く。三番に今河五郎入道・三浦新介、阿字賀に打出て、横逢に懸る所を、南部・下山・結城入道、一万余騎にて懸合、火出程に戦たり。今河・三浦元来小勢なれば、打負て河より東へ引退く。四番に上杉民部大輔・同宮内小輔、武蔵・上野の勢一万余騎を率して、青野原に打出たり。爰には新田徳寿丸・宇都宮の紀清両党三万余騎にて相向ふ。両陣の旗の紋皆知りたる兵共なれば、後の嘲をや恥たりけん、互に一足も引ず、命を涯に相戦ふ。毘嵐断て大地忽に無間獄に堕、水輪涌て世界ことごとく有頂天に翻らんも、かくやと覚るばかり也。され共大敵とりひしくに難ければ、上杉遂に打負て、右往左往に落て行。五番に桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠、態と鋭卒をすぐつて、一千余騎渺々たる青野原に打出て、敵を西北に請てひかへたり。是には奥州の国司鎮守府将軍顕家卿・副将軍春日少将顕信、出羽・奥州の勢六万余騎を率して相向ふ。敵に御方を見合すれば、千騎に一騎を合すとも、猶当るに足ずと見ける処に、土岐と桃井と、少も機を呑れず、前に恐べき敵なく、後に退くべき心有とも見へざりけり。時の声を挙る程こそ有けれ、千余騎只一手に成て、大勢の中に颯と懸入、半時計戦て、つと懸ぬけて其勢を見れば、三百余騎は討れにけり。相残勢七百余騎を又一手に束ねて、副将軍春日少将のひかへたる二万余騎が中へ懸入て、東へ追靡、南へ懸散らし、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止時なく、や声を出してぞ戦合たる。千騎が一騎に成までも、引な引なと互に気を励して、ここを先途と戦けれ共、敵雲霞の如くなれば、ここに囲れ彼に取籠られて、勢もつき気も屈しければ、七百余騎の勢も、纔に二十三騎に打成され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深に切付られて、長森の城へ引籠る。桃井も三十余箇度の懸合に七十六騎に打成され、馬の三図・平頸二太刀切れ、草摺のはづれ三所つかれて、余に戦疲ければ、「此軍是に限るまじ、いざや人々馬の足休ん」と、州俣河に馬を追漬て、太刀・長刀の血を洗て、日も暮れば野に下居て、終に河より東へは越給はず。
やがて奥州勢の先陣は、垂井(現岐阜県不破郡垂井町)・赤坂(現岐阜県大垣市)辺に着きましたが、後より上る後詰め([敵の背後に回って攻めること])の勢近付いていると聞こえたので、まずその敵を退治せよと、また三里引き返して、美濃・尾張両国の間に陣を取りました。後攻めの勢は八万余騎を五手に分け、前後を鬮で決めました、まず一番には小笠原信濃守(小笠原貞宗)・芳賀清兵衛入道禅可(芳賀高名)が二千余騎で志貴の渡し(?)へ馳せ向かえば、奥州勢の伊達・信夫の兵どもは、三千余騎で川を渡って懸かりましたが、芳賀・小笠原に散々に駆け立てられて、残り少なに討たれました。二番には高大和守(高重茂。高師直の弟)が三千余騎で、州俣川(長良川)を渡るところに、渡し終わらぬうちに、相摸次郎時行(北条時行)が五千余騎で乱れ合い、互いに笠符を目印にして組んでは落ち、落ち重なって首を取り、半時ばかり戦いました、大和守が頼みにしていた兵が三百余人討たれて、東西に散って山に向かって引き退きました。三番には今河五郎入道(今川範国)・三浦新介(三浦高継)が、阿字賀(?)に打ち出て、横合い([横手])に懸かるところを、南部・下山・結城入道(結城宗広)が、一万余騎にて駆け合い、火が出るほど戦いました。今川(範国)・三浦(高継)は小勢でしたので、打ち負けて川の東へ引き退きました。四番には上杉民部大輔(上杉憲顕)・同じく宮内小輔が、武蔵・上野の勢一万余騎を率して、青野原(現岐阜県大垣市)に打ち出ました。ここには新田徳寿丸(新田義興。新田義貞の次男)・宇都宮の紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])三万余騎で向かいました。両陣の旗の紋を皆知っている兵どもでしたので、後の嘲評を恥じたのか、互いに一足も引かず、命の限り戦いました。毘嵐([毘藍婆]=[この世の終わりに拭いて、全てを破壊しつくすとされる、強く激しい暴風])がこの世を終わらせて大地はたちまちに無間獄([無間地獄]=[八大地獄の第八])に墜ち、水輪([四輪=大地の下にあって世界を支えているという四個の大輪。の一])が湧き上がって世界は残らず有頂天([色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天])に舞い上がる様も、このようなものと思えるほどでした。けれども大敵を殲滅させることはできず、上杉(憲顕)に打ち負けて、足利軍は右往左往しながら落ちて行きました。五番に桃井播磨守直常(桃井直常)・土岐弾正少弼頼遠(土岐頼遠)は、鋭卒を選って、一千余騎で渺々([果てしなく広い様])たる青野原(現岐阜県大垣市)に打ち出て、敵を西北に受けて控えました。これに奥州の国司鎮守府将軍顕家卿(北畠顕家)・副将軍春日少将顕信(北畠顕信。北畠顕家の弟)が、出羽・奥州の勢六万余騎を率して向かいました。敵に味方を見合あせれば、千騎に一騎を当てても、なおも取るに足りぬと思えましたが、土岐(頼遠)と桃井(直常)は、少しも臆せず、前に恐れる敵なく、後ろに退く心ありとも見えませんでした。鬨の声を上げるやいなや、千余騎はただ一手になって、大勢の中にさっと駆け入り、半時ばかり戦って、ぱっと駆け抜けてその勢を見れば、三百余騎が討たれていました。残る勢七百余騎をまた一手になして、副将軍春日少将(北畠顕信)が率いる二万余騎の中へ駆け入り、東へ追い退かせ、南へ駆け散らし、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止む時なく、や声([掛け声])を出してぞ戦いました。千騎が一騎になるとも、引くな引くなと互いに気を励まして、ここを先途([勝敗・運命などの 大事な分かれ目])と戦いましたが、敵は雲霞の如く大勢でしたので、ここに囲まれかしこに取り籠められて、勢も尽き気もくじけて、七百余騎の勢も、わずかに二十三騎に討ちなされ、土岐(頼遠)は左目の下より右の口脇・鼻まで、疵深く切り付けられて、長森城(現岐阜県岐阜市にあった城)に引き籠りました。桃井(直常)も三十余箇度の駆け合いで七十六騎に討ちなされ、馬の三図([牛馬の背の尻に近い高くなっている所])・平首([馬の首の、両側の平らな所])二太刀切られ、草摺([甲冑の胴の裾に垂れ,下半身を防御する部分])の外れを三所突かれて、あまりに戦い疲れて、「この軍はこれで終わるまい、ならば人々馬の足を休めよう」と、州俣川(長良川)に馬を追い漬し、太刀・長刀の血を洗い、日が暮れれば野に下りて、川より東へ越えることはありませんでした。