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無事是貴人



「太平記」正成天王寺未来記披見の事(その3)

後に思ひ合はするに、正成まさしげかんがへたる所、更に一事も不違。これまことに大権聖者だいごんのしやうじやの末代をかんがみて記し置き給ひし事なれども、文質三統ぶんしつさんとう礼変れいべん、少しもたがはざりけるは、不思議なりし讖文しんもんなり。


後に思い合わせると、正成が考えるところに、まったく異なりませんでした。これはまこと大権聖者([菩薩])が末代を予測して記し置いたものでしたが、文質([忠質文]=[忠は夏、質は殷、文は周。の優れた学識])三統([三統説]=[天統=夏、地統=殷、人統=周というように「三」を周期に王朝が循環するという説])の礼変に、少しも誤りはありませんでした、まこと不思議な讖文([予言を記した文書。未来記])でした。


# by balatnas | 2019-12-06 12:36 | 太平記

「太平記」正成天王寺未来記披見の事(その2)

正成不思議に思へて、よくよく思案してこのもんを考ふるに、先帝既に人王にんわうの始めより九十五代に当たり給へり。「天下一度ひとたび乱れて主安からず」とあるはこれこの時なるべし。「東魚とうぎよ来たつて四海を呑む」とは逆臣相摸入道の一類いちるゐなるべし。「西鳥せいてう東魚を食らふ」とあるは関東くわんとうを滅ぼす人あるべし。「日西天にる」とは、先帝隠岐の国へ遷されさせ給ふ事なるべし。「三百七十しちじふ余箇日」とは、明年みやうねんの春の頃この君隠岐の国より還幸くわんかう成つて、再び帝位に即かせ給ふべき事なるべしと、文の心を明らかにかんがふるに、天下の反覆へんふく久しからじと憑もしく思えければ、金作こがねづくりの太刀一振りこの老僧に与へて、この書をば本の秘府にをさめさせけり。


正成(楠木正成)は不思議に思って、よくよく思案してこの文の意味するところを考えれば、先帝(第九十六代後醍醐天皇)はすでに人王の始めより九十五代に当たっておられる。「天下は一度乱れて主安からず」とあるのはこの時のことであろう。「東魚来たって四海([国内])を呑む」とは逆臣相摸入道(鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかとき)の一類のことに違いない。「西鳥東魚を食う」とあるのは関東(鎌倉幕府)を滅ぼす人がいるということよ。「日が西天に没す」とは、先帝が隠岐国へ遷されたことであろう。「三百七十余箇日」とは、明年の春頃この君が隠岐国より還幸されて、再び帝位に即かるということであろうと、文の意味するところを明らかにすれば、天下の反覆は長いことではないと頼もしく思われて、黄金作りの太刀([太刀の金具を金銅づくりにしたもの])を一振りこの老僧に与えて、この書を元の秘府に納めさせました。

続く


# by balatnas | 2019-12-05 08:50 | 太平記

「太平記」

巻第一

後醍醐天皇御治世の事付武家繁昌の事
関所停止の事
立后事付三位殿御局事
儲王の御事
中宮御産御祈之事付俊基偽篭居の事
無礼講の事付玄恵文談の事
頼員回忠の事
資朝俊基関東下向の事付御告文の事

巻第二
南都北嶺行幸の事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌の事
三人の僧徒関東下向の事
俊基朝臣再関東下向の事
長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事
俊基被誅事並助光事
天下怪異の事
師賢登山の事付唐崎浜合戦の事
持明院殿御幸六波羅の事
主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事

巻第三
主上御夢の事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍の事
桜山自害事

巻第四
笠置囚人死罪流刑の事付藤房卿の事
八歳宮御歌の事
一宮並妙法院二品親王の御事
俊明極参内の事
中宮御歎の事
先帝遷幸の事
備後三郎高徳事付呉越軍の事

巻第五
持明院殿御即位の事
宣房卿二君奉公の事
中堂新常灯消事
相摸入道弄田楽並闘犬の事
時政参篭榎嶋事
大塔宮熊野落の事

巻第六
民部卿三位局御夢想の事
楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事
正成天王寺未来記披見の事


# by balatnas | 2019-12-04 12:12 | 太平記

「太平記」正成天王寺未来記披見の事(その1)

元弘二年八月三日、楠木兵衛正成住吉に参詣し、神馬しんめ三疋これを献ず。翌日天王寺てんわうじまうでて白鞍置いたる馬、白輻輪しらぶくりんの太刀、よろひ一両いちりやうへて引きまゐらす。これは大般若経だいはんにやきやう転読の御布施おんふせなり。啓白けいひやくはつて、宿老しゆくらうの寺僧巻数くわんじゆを捧げて来たれり。楠木すなはち対面してまうしけるは、「正成、不肖ふせうの身として、この一大事を思ひ立ちて候ふ事、涯分がいぶんを計らざるに似たりといへども、勅命のかろからざる礼儀を存ずるに依つて、身命しんみやうの危ふきを忘れたり。然るに両度りやうどの合戦いささか勝つに乗つて、諸国の兵招かざるに馳せくははれり。これ天の時を与へ、仏神擁護のまなじりを回らさるるかと思え候ふ。まことやらん伝へうけたまはれば、上宮太子の当初そのかみ、百王治天の安危をかんがへて、日本につぽん一州いつしうの未来記を書き置かせ給ひて候ふなる。拝見もし苦しからず候はば、今の時に当たり候はん巻き許り、一見仕りさふらはばや」と云ひければ、宿老しゆくらうの寺僧答へて云はく、「太子守屋の逆臣を討つて、始めてこの寺を建てて、仏法を弘められさふらひし後、神代より始めて、持統ぢとう天皇てんわうの御宇に至るまでを記されたる書三十巻さんじつくわんをば、前代旧事本記ぜんだいくじほんぎとて、卜部うらべ宿祢すくねこれを相伝さうでん有職いうしよくの家を立て候ふ。その外にまた一巻いつくわんの秘書をめられて候ふ。これは持統天皇以来末世代々の王業わうげふ、天下の治乱を記されて候ふ。これをばたやすく人の披見する事は候はねども、別儀を以つて密かに見参に入れ候ふべし」とて、すなはち秘府の銀鑰ぎんやくを開いて、金軸こんぢくの書一巻いつくわんを取り出だせり。正成悦びすなはちこれを披覧するに、不思議の記文きもん一段あり。そのもんに云はく、

人王九十五代に当たつて。天下一度ひとたび乱れて而しゆ安からず。この時東魚とうぎよ来たつて四海を呑む。日西天に没すること三百七十しちじふ余箇日。西鳥せいてう来たつて東魚を食らふ。その後海内かいだい一に帰すること三年。獼猴みこうの如くなる者天下をかすむること三十余年。大凶変じて一元に帰す。云々。


元弘二年(1332)八月三日に、楠木兵衛正成(楠木正成)は住吉(住吉大社。現大阪市住吉区)に参詣し、神馬を三頭奉納しました。翌日天王寺(四天王寺。現大阪市天王寺区)に詣でて白鞍([鞍の前輪・後輪しづわの表面を銀で張り包んだもの])を置いた馬、白覆輪([道具や器具に異金属の縁取りを施して華やかさを増大させたもの])の太刀、鎧一両を添えて引き参らせました。これは大般若経転読の布施でした。啓白([法会などで、その趣旨や願意を申し述べること])が済んで、宿老の寺僧が巻数([僧が願主の依頼で読誦した経文・陀羅尼などの題目・巻数・度数などを記した文書または目録。木の枝などにつけて願主に送る])を捧げて参りました。楠木(正成)はすぐに対面して申すには、「この正成が、取るに足りない身でありながら、この一大事を思い立ったのは、涯分([身分に相応していること])に叶わずといえども、勅命の礼儀を軽んじるべからず、身命の危うきを忘れてのこと。けれども両度の合戦で少々勝つに乗って、諸国の兵が招かずして馳せ加わりました。これ天が時を与え、仏神擁護の眸を廻らされたものと思うからなのです。定かではありませんが伝え聞くところ、上宮太子(聖徳太子)のその昔、百王([天皇])が治天の安危を心配されて、日本一州の未来記を書き置かせたと聞いております。拝見が叶うならば、今の時代に当たる巻ばかり、一見したいものです」と申しました、宿老の寺僧が答えて申すには、「太子(聖徳太子)が守屋(物部守屋)の逆臣を討って、初めてこの寺(四天王寺)を建てて、仏法を広められた後、神代より始めて、持統天皇(第四十一代天皇)の御宇に至るまでを記した書三十巻を、前代旧事本記(『先代旧事本紀』。ただし全十巻)と申して、卜部宿祢がこれを相伝して有職([公家・武家などの行事、儀式、官職等に 関係する知識と、それに詳しい者])の家を立てられました。そのほかにまた一巻の秘書がございます。これは持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を記したものでございます。これを容易く人が披見することはできませんが、特別に密かにご覧に入れましょう」と申して、たちまち秘府の銀鑰([銀の鍵])を開いて、金軸の書一巻を取り出しました。正成(楠木正成)早よろこんでたちまちこれを披覧すると、不思議な記文が一段ありました。その文には、

人王九十五代に当たり。天下は一度乱れて主は安からず。この時東魚がやって来て四海を呑む。日は西天に没して三百七十余箇日。西鳥がやって来て東魚を食う。その後海内が一つに帰すこと三年。獼猴([大猿])の者が天下を掠めて三十余年。大凶変じて一元に帰す。と。

続く


# by balatnas | 2019-12-04 12:09 | 太平記

「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その8)

さるほどに楠木兵衛正成まさしげは、天王寺に打ち出でて、威猛ゐまうあらはすといへども、民屋みんをくわづらひをも不為して、士卒じそつに礼を厚くしける間、近国は申すに及ばず、遐壌遠境かじやうゑんきやう人牧じんぼくまでも、これを聞き伝へて、我も我もと馳せくははりけるほどに、そのそのいきほひやうやく強大きやうだいにして、今は京都よりも、討つ手を左右さうなく下さるる事は叶ひ難しとぞ見へたりける。


こうして楠木兵衛正成(楠木正成)は、天王寺に打ち出て、威猛をふるいましたが、民屋を煩わせることはなく、士卒にも礼を厚くしたので、近国は申すに及ばず、遐壌([辺境])遠境の人牧([人民を養い治める者の意])までもが、これを聞き伝えて、我も我もと馳せ加わり、その勢いは強大となって、今は京都よりも、討つ手を下すことは容易いことではないように思われました。

続く


# by balatnas | 2019-12-03 13:28 | 太平記

「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その7)

さるほどに河内かはちの国の住人ぢゆうにん和田孫三郎この由を聞いて、楠木がまへに来たつて云ひけるは、「先日の合戦に負け腹を立て京より宇都宮を向け候ふなる。今宵こよひすでに柱松はしらもとに着いて候ふがその勢わづかに六七百騎には過ぎじと聞こへ候ふ。先に隅田すだ・高橋が五千余騎にて向かつてさふらひしをだに、我らわづかの小勢にて追つ散らして候ひしぞかし。そのうへこの度は御方勝つに乗つて大勢なり。敵は機を失うて小勢なり。宇都宮たとひ武勇の達人なりとも、なにほどの事か候ふべき。今宵こよひ逆寄さかよせにして打ち散らして捨て候はばや」と云ひけるを、楠木しばらく思案して云ひけるは、「合戦の勝負必ずしも大勢小勢おほぜいこぜいに依らず、ただ士卒じそつの心ざしを一つにするとせざるとなり。されば『大敵を見てはあざむき、小勢を見てはおそれよ』と申す事これなり。先づ思案するに、先度のいくさに大勢打ち負けて引き退く跡へ、宇都宮一人小勢にて相向あひむかふ心ざし、一人も生きて帰らんと思ふ者よも候はじ。そのうへ宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。紀清両党きせいりやうたうつはもの、元より戦場せんぢやうに臨んで命を棄つる事塵芥ぢんがいよりもなほ軽くす。その兵七百余騎心ざしを一つにして戦ひを決せば、当手たうての兵たとひ退く心なくとも、大半は必ず討たるべし。天下の事まつたくこの度の戦ひに不可依るべからず。行くすゑ遥かの合戦に、多からぬ御方初度のいくさに討たれなば、後日の戦ひに誰か力を合はすべき。『良将りやうしやうは戦はずして勝つ』とまうす事候へば、正成まさしげに於いては、明日わざとこの陣を去つて引き退き、敵に一面目あるやうに思はせ、四五日を経て後、方々はうばうの峯にかがりを焚いて、一蒸ひとむし蒸すほどならば、坂東武者の習ひ、程なく気疲れて、『いやいや長居ながゐしては悪しかりなん。一面目ある時いざや引きひきかへさん』と云はぬ者は候はじ。されば『懸くるも引くもをりにこそよれ』とは、加様かやうの事を申すなり。夜すでに暁天げうてんに及べり。敵定めて今は近付くらん。いざさせ給へ」とて、楠木天王寺てんわうじを立ちければ、和田・湯浅ももろともに打ち連れてぞ引きたりける。夜明けければ、宇都宮七百余騎の勢にて天王寺てんわうじへ押し寄せ、古宇都こうづの在家に火を懸け、鬨の声を上げたれども、敵なければ出で合はず。「たばかりぞすらん。この辺りは馬の足立ち悪しうして、道狭せばき間、懸け入る敵に中をられな、後ろをつつまれな」と下知げぢして、紀清両党きせいりやうたう馬の足を揃へて、天王寺の東西の口より懸け入つて、二三度まで懸け入り懸け入りしけれども、敵一人もなくして、焚き捨てたるかがりともしび残りて、夜はほのぼのと明けにけり。宇都宮戦はざる先に一勝ちしたる心地して、本堂ほんだうまへにて馬より下り、上宮太子じやうぐうたいしを伏しをがみ奉り、これひとへに武力ぶりきの致す所にあらず、ただしかしながら神明仏陀の擁護おうごに懸かれりと、信心を傾け歓喜くわんぎの思ひを成せり。やがて京都へ早馬はやむまを立て、「天王寺の敵をば即時に追ひ落としさふらひぬ」とまうしたりければ、両六波羅りやうろくはらを始めとして、御内外様の諸軍勢に至るまで、宇都宮がこの度の振る舞ひ抜群なりと、誉めぬ人もなかりけり。宇都宮、天王寺てんわうじの敵を容易く追つ散らしたる心地にて、一面目はあるていなれども、やがて続いて敵の陣へ攻め入らん事も、無勢ぶぜいなれば叶はず、またまことのいくさ一度もずして引つかへさん事もさすがなれば、進退しんだいきはまつたるところに、四五日を経て後、和田・楠木、和泉いづみ河内かはちの野伏どもを四五千人駆り集めて、しかるべきつはもの二三百騎差し添へ、天王寺辺に遠篝火とほかがりびをぞ焚かせける。すはや敵こそ打ち出でたれと騒動さうどうして、更け行くままにこれを見れば、秋篠あきしの外山とやまの里、生駒のだけに見ゆる火は、晴れたる夜の星よりも繁く、藻塩草もしほぐさ志城津しぎづの浦、住吉・難波なんばの里に焚くかがりは、漁舟ぎよしうとぼ漁火いさりびの、波を焚くかと怪しまる。すべて大和・河内・紀伊きの国にありとある所の山々浦々に、篝を焚かぬ所はなかりけり。その勢幾万騎いくまんぎあらんと推量してをびたたし。かくの如くする事両三夜に及び、次第に相近付あひちかづけば、いよいよ東西南北四維上下しゆゐじやうげに充満して、闇夜あんやに昼を替へたり。宇都宮これを見て、敵寄せ来たらば一軍ひといくさして、雌雄を一時に決せんと心ざして、馬の鞍をもやすめず、よろひ上帯うはおびをも解かず待ち懸けたれども、いくさはなうして敵の取りまはいきほひに、勇気疲れ武力ぶりきたゆんで、あはれ引き退かばやと思ふ心着きけり。斯かるところに紀清両党きせいりやうたうともがらも、「我らがわづかの小勢にてこの大敵に当たらん事は、始終いかんと思え候ふ。先日当所たうしよの敵を事故ことゆゑなく追ひ落としてさふらひつるを、一面目にして御上洛しやうらく候へかし」と申せば、諸人皆この義に同じ、七月二十七日にじふしちにちの夜半ばかりに宇都宮天王寺てんわうじを引きて上洛すれば、翌日早旦さうたんに楠木やがて入り替はりたり。まことに宇都宮と楠木と相戦あひたたかうて勝負を決せば、両虎二龍りやうこじりゆうの戦ひとして、いづれも死をにすべし。されば互ひにこれを思ひけるにや、一度ひとたびは楠木引いてはかりごとを千里の外に廻らし、一度は宇都宮退いて名を一戦の後に失はず。これ皆智謀深く、おもんばかり遠き良将りやうしやうなりしゆゑなりと、誉めぬ人もなかりけり。


やがて河内国の住人和田孫三郎(和田正頼まさより)はこれを聞いて、楠木(楠木正成)の御前に来て申すには、「幕府方は先日の合戦に負け腹を立て京より宇都宮(宇都宮公綱きんつな)を差し向けるとのことでございます。今夜のうちにすでに柱松(柱本。現大阪府高槻市)に着いておりますがその勢はわずかに六七百騎には過ぎないと申しております。先に隅田(隅田通治まさはる)・高橋(高橋宗康むねやす)が五千余騎で向かいましたが、我らがわずかの小勢で追い散らしました。その上今度味方は勝つに乗って大勢です。敵は機を失って小勢です。宇都宮(公綱)がたとえ武勇の達人であろうとも、何事かございましょう。今宵逆寄せして打ち散らして捨てるのはどうでございましょう」と申すのを、楠木(正成)はしばらく思案して申すには、「合戦の勝負は必ずしも大勢小勢に依らず、ただ士卒が心を一つに合わせるかどうかによるもの。しかるに『大敵を見ては欺き、小勢を見ては畏れよ』と申すではないか。まず思案するに、先度の軍に大勢打ち負けて引き退くその後に、宇都宮(公綱)がただ一人小勢で向かうということは、一人も生きて帰ろうと思っておらぬからであろう。その上宇都宮(公綱)は坂東一の弓矢取りぞ。紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])の兵もまた、元より戦場に臨んでは命を棄てること塵芥よりもなお軽く思うておろう。その兵七百余騎が心ざしを一つにして戦い決するならば、当手の兵がたとえ引き退く心はなくとも、大半が必ずや討たれるであろう。天下はこの度の戦いで決まるものではない。行く末遥かの合戦に、決して多くない我が軍が初度の戦で討たれたならば、後日の戦いに誰が力を合わせよう。『良将は戦わずして勝つ』と申すという、この正成の考えはこうだ、明日はわざとこの陣を去って引き退き、敵に一面目あるように思わせ、四五日を経て後、方々の峯に篝火を焚いて、一蒸し蒸し上げれば、坂東武者のこと、たちまち気は萎み、『いやはや長居してはまずかろう。一面目ある間に引き返そう』と言わぬ者はおらぬ。なれば『駆ける退くも折によるもの』とは、このことを申す言葉ぞ。夜はすでに暁天になろうとしておる。敵はきっと近付いておるであろう。さあここを出るぞ」と申して、楠木(正成)が天王寺を立てば、和田(正頼)・湯浅(湯浅宗藤むねふじ)もろともに打ち連れて兵を引きました。夜が明けると、宇都宮(公綱)は七百余騎の勢で天王寺(四天王寺。現大阪市天王寺区)に押し寄せ、古宇都(高津。現大阪市中央区)の在家に火を懸け、鬨の声を上げましたが、敵はいませんでしたので出会うこともありませんでした。「我らを騙そうとしておるのか。この辺りは馬の足立ちも悪く、道は狭い、駆け入る敵に中を破られるな、裏を懸かすな」と命じて、紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])は馬の足を揃えて、天王寺の東西の口より駆け入って、二三度まで駆け回りましたが、敵は一人もなくて、焚き捨てた篝には燈火が残ったまま、夜はほのぼのと明けました。宇都宮(公綱)は戦わずして勝ったような機能なって、本堂の前で馬から下り、上宮太子(聖徳太子)を伏し拝み(四天王寺は聖徳太子が建立)、この勝ちは武力によるものでなく、神明仏陀の擁護によるものと、信心を傾け歓喜せずにおれませんでした。すぐに早馬を立て、「天王寺の敵をば即時に追い落としました」と告げ知らせると、両六波羅(北条仲時なかとき、南方北条時益ときます)をはじめとして、身内外様の諸軍勢に至るまで、宇都宮のこの度の振る舞い抜きん出ておると、誉めぬ人はいませんでした。宇都宮(公綱)は、天王寺の敵を容易く追い散らし、一面目を施したと思いましたが、やがて続いて敵の陣へ攻め入ろうにも、無勢なれば適わず、またまことの軍を一度もせずに引き返すのもためらわれて、進退を決めかねていたところに、四五日を経た後、和田(和田正頼まさより)・楠木(楠木正成)は、和泉・河内の野伏([農民の武装集団])どもを四五千人駆り集めて、それなりの兵二三百騎を差し添え、天王寺あたりに遠篝火を焚かせました。宇都宮(公綱)方は敵が攻めて来たと騒動になりましたが、更け行くままにこれを見れば、秋篠(現奈良県奈良市)や外山の里(秋篠に同じ)、生駒岳(現大阪府・奈良県境にある生駒山)に見える火は、晴れた夜の星よりも数多く、藻塩草を焼く志城津の浦(敷津の浦。現大阪市浪速区)のよう、住吉(現大阪市住吉区)・難波(現大阪市中央区)の里に焚く篝は、漁舟に灯す漁火が、まるで波を焚くようでした(生駒山があるので、秋篠外山の里の火は天王寺からは見えないはずだが)。すべて大和・河内・紀伊国のありとあらゆる所の山々浦々に、篝を焚かぬ所はありませんでした。その勢は幾万騎あるかと思われるほどでした。こうして三日の間、次第に火が近付けば、ますます東西南北四維([天地の四つの隅。いぬい=北西・ひつじさる=南西・たつみ=南東・うしとら=北東])上下に充満して、闇夜を昼に変えました。宇都宮(公綱)はこれを見て、敵が攻めて来れば一軍して、雌雄を一時に決しようと心に決めて、馬も休めず、鎧の上帯([鎧・腹巻き・胴丸の類の胴先につける帯])をも解かず待ち構えましたが、軍はなく敵の勢に、勇気はしぼみ武力を失って、仕方なく兵を引こうと思うようになりました。ここに紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])の輩も、「我らわずかの小勢をもってこの大敵に当たれば、勝敗は知れております。先日当所の敵を追い落としたことを、一面目にして上洛されますよう」と申せば、諸人は皆この義に同じ、七月二十七日の夜半ほどに宇都宮(公綱)は天王寺を引き上げて上洛しました、翌日の早旦には楠木(楠木正成)がすぐに入れ替わりました。まこと宇都宮(公綱)と楠木(正成)が戦って勝負を決しておれば、両虎二龍の戦いとなり、いずれも死を遂げていたことでしょう。ならば互いにこれを思い、一度は楠木(正成)が引いて謀略を千里の外に廻らし、一度は宇都宮(公綱)が退いて名を一戦の後に失うことはありませんでした。皆智謀深く、思慮ある良将故のことと、誉めぬ人はいませんでした。

続く


# by balatnas | 2019-12-02 12:07 | 太平記

「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その6)

両六波羅りやうろくはらこれを聞いて、安からぬ事に思はれければ、重ねて寄せんと議せられけり。その頃京都余りに無勢ぶせいなりとて関東くわんとうより上せられたる宇都宮治部の大輔たいふを呼び寄せ評定ひやうぢやうありけるは、「合戦の習ひ運に依つて雌雄替はる事いにしへよりなきにあらず。しかれどもこの度南方なんばういくさ負けぬる事、ひとへにしやうはかりごとの拙きに依れり。また士卒じそつ臆病おくびやうなるがゆゑなり。天下てんが嘲哢てうろう口を塞ぐに所なし。中に就いて仲時なかとき罷り上りし後、重ねて御上洛しやうらくの事は、凶徒もし蜂起せば、御向かひ合つて静謐せいひつさふらへとの為なり。今の如きんば、敗軍の兵を駆り集めて幾度向けて候ふとも、はかばかしき合戦しつとも思えず候ふ。かつうは天下の一大事、この時にて候へば、御向かひ候ひて御退治たいぢ候へかし」とのたまひければ、宇都宮辞退の気色きしよくなうして申されけるは、「大軍すでに利を失うて後、小勢にて罷り向かひ候はん事、いかんと存じ候へども、関東くわんとうを罷り出でし始めより、加様かやうの御大事に逢うて命をかろくせん事を存じ候ひき。今の時分、必ずしも合戦の勝負を見るところにては候はねば、一人にて候ふとも、先づ罷り向かうて一合戦仕り、難儀に及び候はば、重ねて御勢をこそまうし候はめ」と、まことに思ひ定めたるていに見へてぞ帰りける。宇都宮一人武命を含んで大敵に向かはん事、命をしむべきに非ざりければ、わざと宿所へも帰らず、六波羅よりすぐに、七月十九日じふくにちの午の刻に都を出で、天王寺てんわうじへぞ下りける。東寺辺までは主従わづかに十四五騎がほどと見へしが、洛中にあらゆる所の手の者ども馳せくははりける間、四塚よつづか作道つくりみちにては、五百余騎にぞ成りにける。路次ろしに行き逢ふ者をば、権門勢家けんもんせいけを不云、乗りのりむまを奪ひ人夫にんぶを駆り立てとほりける間、行旅かうりよ往反路わうへんみちを曲げ、閭里りより民屋みんをくとぼそを閉づ。その夜は柱松はしらもとに陣を取りて明くるを待つ。その心ざし一人も生きて帰らんと思ふ者はなかりけり。


両六波羅(北条仲時なかとき、北条時益ときます)はこれを聞いて、安からぬ事と思い、重ねて攻めることにしました。その頃京都はあまりにも無勢で関東より上らせた宇都宮治部大輔(宇都宮公綱きんつな)を呼び寄せ評定がありました、「合戦というものは運によって勝ち負けが決まる昔からそうであった。とは申せこの度南方の軍に負けたのは、ひとえに大将の戦略がおそまつであったからよ。また士卒があまりにも臆病であったせいでもある。天下の嘲哢というものは口を塞ぐことはできぬ。申すまでもなく仲時(北条仲時)が上った後に、重ねて上洛させたのは、凶徒が蜂起したならば、兵を向かわせこれを鎮めるためぞ。このままでは、敗軍の兵を駆り集めて幾度兵を差し向けたところで、合戦に勝つことはできぬであろう。今が天下の一大事、今こそ、出で向かって敵を退治してほしい」と申すと、宇都宮(公綱)は辞退する気色をまったく見せずに申すには、「大軍がすでに敗れた後に、小勢で向かうのも、どうかと思われますが、関東を出る時より、このような大事に命を軽んじる覚悟でございます。これまで、合戦の勝負を見ておりませんので、一人であろうと、まず出で向かい一合戦し、難儀することがございますれば、重ねて勢を願い申しましょう」と、まこと覚悟を決めた様子で帰って行きました。宇都宮(公綱)がただ一人武命を受けて大敵に向かうことなりました、命を惜しむべくもありませんでしたので、宿所に帰ることもなく、六波羅よりすぐに、七月十九日午の刻([午前十二時頃])に都を出て、天王寺(現大阪市天王寺区)に下りました。東寺(現京都市南区)あたりまでは主従わずかに十四五騎ほどに見えましたが、洛中よりあらゆる所の手の者どもが馳せ加わり、四塚(現京都市南区四ッ塚)・作道(鳥羽作道。朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀=現京都市伏見区。方面に通じた古代道路)には、五百余騎になりました。路次で行き逢う者は、権門勢家([権勢のある門閥や家柄])と言わず、乗り馬を奪い人夫を駆り立て通ったので、行旅([旅人])は道を変え、閭里([村里])の民屋は門戸を閉じました。その夜は柱松(柱本。現大阪府高槻市)に陣を取り夜が明けるのを待ちました。一人なりとも生きて帰ろうと思う者はいませんでした。

続く


# by balatnas | 2019-11-29 12:08 | 太平記

「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その5)

京童きやうわらんべくせなれば、この落書このらくしよを歌に作りて歌ひ、あるひは語り伝へて笑ひけるあひだ隅田すだ・高橋面目を失ひ、しばらくは出仕を止め、虚病きよびやうしてぞ居たりける。


京童([京童部]=[京都市中の物見高くて口さがない若者ども])のことでしたので、この落書を歌に作って歌い、あるいは語り伝えて笑ったので、隅田(通治)・高橋(宗康)は面目を失い、しばらくは出仕を止め、病いと申して蟄居しました。

続く


# by balatnas | 2019-11-28 12:14 | 太平記

「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その4)

さるほどに明くれば五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合はせ、渡部の橋まで打ち臨んで、川向かひに控へたる敵の勢を見渡せば、わづかに二三百騎には過ぎず、あまつさへ痩せたる馬に縄手綱なはたづな懸けたるていの武者どもなり。隅田すだ・高橋これを見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際ぶんざい、さこそあらめと思ふに合はせて、はかばかしき敵は一人なかりけり。この奴ばら一々に召し捕つて六条河原ろくでうかはらに斬り懸けて、六波羅殿の御感にあづからんと云ふままに、隅田・高橋人交ぜもせず橋よりしもを一文字にぞ渡しける。五千余騎のつはものどもこれを見て、我先にと馬を進めて、あるひは橋のうへを歩ませあるひは川瀬かはせを渡して、向かひの岸に懸け上がる。楠木が勢これを見て、遠矢とほや少々射捨てて、一戦もせず天王寺てんわうじの方へ引き退く。六波羅の勢これを見て、勝つに乗り、人馬の息をも継がせず、天王寺の北の在家まで、揉みに揉うでぞ追うたりける。楠木思ふほど敵の人馬を疲らかして、二千騎にせんぎを三手に分けて、一手は天王寺のひんがしより敵を弓手ゆんでに受けて懸け出づ。一手は西門さいもんの石の鳥居より魚鱗懸ぎよりんがかりに懸け出づ。一手は住吉の松の陰より懸け出で、鶴翼かくよくに立て開き合はす。六波羅の勢を見合あはすれば、対揚たいやうすべきまでもなき大勢なりけれども、陣の張りやうしどろにて、かへつて小勢に囲まれぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋これを見て、「敵後ろに大勢を隠してたばかりけるぞ。この辺りは馬の足立ち悪しうして叶はじ。広みへ敵をおびき出だし、勢の分際ぶんざいを見計らふて、懸け合はせ懸け合はせ勝負を決せよ」と、下知げぢしければ、五千余騎のつはものども、敵に後ろを切られぬ先にと、渡部の橋を指して引き退く。楠木が勢これに利を得て、三方さんばうより勝ち鬨を作つて追つ懸くる。橋近く成りければ、隅田すだ・高橋これを見て、「敵は大勢にてはなかりけるぞ、ここにてかへし合はせずんば大河後ろにあつて悪しかりぬべし。返せやつはものども」と、馬の足を立てなほし立て直し下知げぢしけれども、大勢の引き立てたる事なれば、一かへしも返さず、ただ我先にと橋の危ふきをも云はず、馳せ集まりける間、人馬ともに推し落とされて、水に溺るる者数を知らず、あるひは淵瀬をも知らず渡し懸かつて死ぬる者もあり、あるひは岸より馬を馳せたふしてそのまま討たるる者もあり。ただ馬・物の具を脱ぎ捨てて、逃げ延びんとする者はあれども、返し合はせて戦はんとする者はなかりけり。しかれば五千余騎のつはものども、残り少なに打ち成されて這ふ這ふ京へぞ上りける。その翌日に何者かたりけん、六条河原ろくでうかはらに高札を立て一首の歌をぞ書きたりける。

渡部の 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん


夜が明けて五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎は、所々の陣を一所に合わせ、渡部橋まで打ち臨んで、川向かいに控え敵の勢を見渡せば、わずかに二三百騎には過ぎず、その上痩せ馬に縄手綱を懸けただけの武者ばかりでした。隅田(隅田通治まさはる)・高橋(高橋宗康むねやす)はこれを見て、和泉・河内の勢の分際([数])は、大したことはないと思いました、強そうな敵は一人もいないようでした。この奴らを一々に召し捕って六条河原のに斬り獄門に懸けて、六波羅殿の御感に与かろうと、隅田(通治)・高橋(宗康)は人も連れずに渡辺橋の下を一文字に渡りました。五千余騎の兵はこれを見て、我先にと馬を進めて、ある者は橋の上を歩ませある者は川瀬を渡して、向こう岸に駆け上がりました。楠木(楠木正成)の勢はこれを見ると、遠矢を少々射捨てて、一戦もせず天王寺(四天王寺。現大阪市天王寺区)の方へ引き退きました。六波羅の勢はこれを見て、勝つに乗り、人馬の息をも継がせず、天王寺の北の在家まで、しゃかりきになって追いかけました。楠木(楠木正成)は思うほどに敵の人馬を疲れさせると、二千騎を三手に分けて、一手は天王寺の東より敵を弓手([左手])に受けて駆け出しました。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸かり([魚鱗の隊形で敵に攻めかかること])に駆け出しました。一手は住吉(住吉大社。現大阪市住吉区)の松の陰より駆け出て、鶴翼に開いて勢を合わせました。六波羅の勢を見れば、対揚([対等])と思えぬほど大勢でしたが、陣は乱れて、小勢に囲まれるほどに思われました。隅田(隅田通治まさはる)・高橋(高橋宗康むねやす)はこれを見て、「敵が後ろに大勢を隠して騙しておったとは。この辺りは馬の足立ち悪く敵うまい。広みへ敵をおびき出し、勢の分際([数])を見て、駆け合わせて勝負を決せよ」と、命じたので、五千余騎の兵どもは、敵に後ろを破られる前にと、渡部橋を指して引き退きました。楠木(楠木正成)の勢はこれに勢い付いて、三方より勝ち鬨を作って追いかけました。橋近くになって、隅田(隅田通治まさはる)・高橋(高橋宗康むねやす)はこれを見て、「敵は大勢でないぞ、ここで返し合わせよ大河を後ろにしては不利だ。返せや兵ども」と、馬の足を立て直し立て直し命じましたが、大勢でしたので、一返しも返せず、ただ我先にと橋の危きも構わず、馳せ集まったので、人馬ともに押され落ちて、水に溺れる者は数知れず、ある者は淵瀬とも知らず渡って死ぬ者もあり、ある者は岸で馬を倒してそのまま討たれる者もありました。ただ馬・物の具([武具])を脱ぎ捨てて、逃げ延びようとする者はいましたが、返し合わせて戦おうとする者はいませんでした。こうして五千余騎の兵どもは、残り少なに討たれてやっとのことで京に上りました。その翌日に何者の手によるものか、六条河原に高札を立てて一首の歌が書いてありました。

渡部の川の流れがどれほど速いというのか。高橋は川に落ちて、隅田は流されたというぞ。

続く


# by balatnas | 2019-11-27 12:07 | 太平記

「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その3)

楠木その勢を合はせて、七百余騎にて和泉いづみ・河内の両国りやうごくを靡けて、大勢に成りければ、五月十七日じふしちにちに先づ住吉・天王寺てんわうじへんへ打つて出で、渡部わたなべの橋よりみんなみに陣を取る。しかるあひだ和泉・河内の早馬はやむま敷並しきなみを打つて、楠木すでに京都へ攻め上る由告げければ、洛中の騒動なのめならず。武士東西に馳せ散りて貴賎上下あわつる事きはまりなし。斯かりければ両六波羅りやうろくはらには畿内近国の勢雲霞の如くの馳せ集まつて、楠木今や攻め上ると待ちけれども、敢へてその義もなければ、聞くにも似ず、楠木小勢にてぞあるらん、こなたより押し寄せて打ち散らせとて、隅田すだ・高橋を両六波羅の軍奉行いくさぶぎやうとして、四十八箇所しじふはちかしよかがり、並びに在京人ざいきやうにん、畿内近国の勢を合はせて、天王寺てんわうじへ指し向けらる。その勢都合つがふ五千余騎よき、同じき二十日京都を立つて、尼崎・神崎かんざき柱松はしらもとの辺に陣を取りて、遠篝とほかがりを焚いてその夜を遅しと待ち明かす。楠木これを聞いて、二千余騎を三手に分け、宗との勢をば住吉・天王寺てんわうじに隠して、わづかに三百騎ばかりを渡部の橋のみんなみに控へさせ、大篝おほかがり二三箇所に焚かせて相向あひむかへり。これはわざと敵に橋を渡させて、水の深みに追ひはめ、雌雄を一時に決せんが為となり。


楠木(正成)はそれらの勢を合わせて、七百余騎で和泉・河内両国を味方に付けて、大勢になったので、五月十七日にまず住吉(現大阪市住吉区)・天王寺(現大阪市天王寺区)辺へ打って出て、渡部橋(当時の場所は不詳。現大阪市中央区あたりらしい)の南に陣を取りました。やがて和泉・河内の早馬がひっきりなしに、楠木(楠木正成)が京都へ攻め上ろうとしていると知らせたので、洛中の騒動は並々でありませんでした。武士は東西に馳せ散り貴賎上下はあわて騒ぎました。こうして両六波羅には畿内近国の勢が雲霞の如く馳せ集まり、楠木(正成)の攻め上るのを今か今かと待ちましたが、まったくその兆しなく、聞くのと異なり、楠木は小勢に違いない、こちらより押し寄せて打ち散らせと、隅田(隅田通治まさはる)・高橋(高橋宗康むねやす)を両六波羅の軍奉行として、四十八箇所の篝火、並びに在京人、畿内近国の勢を合わせて、天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に差し向けました。その勢都合五千余騎、同じ五月二十日に京都を立って、尼崎(現兵庫県尼崎市)・神崎(現兵庫県尼崎市)・柱松(柱本。現大阪府高槻市)の辺に陣を取り、遠篝を焚いてその夜を遅しと待ち明かしました。楠木(正成)はこれを聞いて、二千余騎を三手に分け、主だった勢を住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)・天王寺(四天王寺)に隠して、わずかに三百騎ばかりを渡部橋の南に控えさせ、大篝を二三箇所に焚かせて対峙しました。これはわざと敵に橋を渡らせて、水の深みに追い遣り、雌雄を一時に決するためでした。

続く


# by balatnas | 2019-11-26 12:44 | 太平記

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